8411への愛と感謝 
24/10/15, 09:47 PM
17年。それは人生の半分にも満たない時間かもしれない。だが、ひとつの場所に、ひとつの役割に、自分の青春を捧げた17年という歳月は、紛れもなく重く、そして尊い。
朝陽が昇る前から家を出て、満員電車に揺られ、深夜に帰宅する。そんな日々が、まるで永遠に続くかのように思えた。会社の歯車として、ただひたすらに回る。喜びも、悲しみも、怒りも、すべてを飲み込んで。
だが、その歯車が、ついに止まった。自ら望んで、その歯車を降りたのだ。
退職届を提出した日のことは、昨日のことのように鮮明に覚えている。上司の驚き、同僚の戸惑い、そして、自分自身の心の奥底から湧き上がる高揚感。まるで、長年囚われていた鳥籠から解放されたかのような、言いようのない自由を感じた。
そして今、私はここにいる。窓の外には、どこまでも広がる青い空。燦々と降り注ぐ太陽の光。鳥たちのさえずり、風のささやき。五感を解き放ち、世界の美しさを改めて噛みしめる。
もう、時間に追われることはない。満員電車に揺られることもない。上司の顔色を伺うこともない。
自由だ。
この自由を、私はどう使おうか。
世界中を旅して、まだ見ぬ景色をこの目に焼き付けようか。
子どもの頃からの夢だった、小説を書き始めようか。
それとも、ただゆっくりと、自然の中で暮らそうか。
可能性は無限大に広がっている。
胸の高鳴りが止まらない。
希望に満ちた未来が、私を待っている。
これは、私の人生、第2章の幕開けだ。
さあ、行こう。
新たな冒険へ。
自分自身を、再び輝かせるために。


境地に至りて我が人生 
24/10/15, 02:23 PM
幼き頃より、己に自信ありき。
されどそれは、根拠なき自信に過ぎず。
学生時代、勉学に励み、様々なことに挑戦するも、結果は惨憺たるものなりき。
「自分は「愚か者」か「臆病者」か…否、さにあらず、きっとやり方が悪かったのだ…」
かくして、我が心に屈折せる劣等感が巣くう。
人目を気にし、生きるようになる。
「出来る風」を装うも、叶わず。見透かされておる。
このままでは、身を滅ぼす。
斯くして考えぬ。周囲の人間より優れた能力を模倣し、吸収、我が物とせんと。
これまで見下していた人々を、素直なる眼差しにて見つめ直す。
各々性質は異なるも、羨むべき力を持つ者どもが、我が周囲には夥しくおりき。
我がなりに吸収し、時に編曲さえ加えてみせたり。
やがてそれらは、揺るぎなき我が自信へと変貌を遂げたり。

そして、哲学もまた生まれぬ。

「我」の誕生なりき

「柳に風」「太き芯より細く強き芯」

それは今も変わることなし。

依って長所を見抜く能力は神業に近づきつらん。


老躯に鞭打つ、膝痛との戦い 
24/10/15, 02:13 PM
四十路半ばを過ぎし頃より、我が右膝に鈍き痛み走り出す。当初は階段の上り下りのみならず、歩行の度、立ち上がりの度に、容赦なく我が身を襲うに至る。医師の診断曰く、「変形性膝関節症」とのこと。軟骨の摩耗により、骨と骨が直接摩擦を起こし、炎症を招いていると宣う。
手術という選択肢も提示されしものの、メスを入れることへの畏怖、術後のリハビリ生活への不安から、保存療法を選択せり。処方されたる薬を服用しつつ、藁にもすがる思いにて近所の接骨院に通い始める。
週三回、接骨院へと足を運ぶ。電気治療、温熱療法、マッサージ…様々な施術を受けつつ、先生は我が膝の状態を丁寧に診てくださる。「焦らず、ゆっくりと治して参りましょう」そのお言葉に励まされ、地道な治療を続ける決意を固める。
接骨院での治療に加え、先生より勧められたるは筋肉トレーニングなり。特に大腿部の筋肉を鍛えることで、膝への負担を軽減できるとのこと。最初はスクワットすらままならざりしものの、回数を重ねるごとに少しずつできるようになっていく己に、ささやかな喜びを覚える。
まるで、失いかけていた己自身を取り戻していくかの如き感覚。それは、単なる肉体的な回復に留まらず。膝の痛みと共に沈んでいた心が、徐々に晴れやかになっていくのを感じ取る。
接骨院の先生との会話も、我が心の支えなり。治療のことのみならず、日々の出来事や将来への不安、時には他愛もない冗談を交わし、先生との間に信頼関係を築き上げていく。
「諦めずに、頑張りましょう」
先生の言葉は、常に我が心に響き渡る。膝の痛みは完全には消え去りておらぬ。それでも、以前のように歩行を恐れることはなくなった。階段を上るも、以前より楽になった。
変形性膝関節症との戦いは、未だ終わらず。これからも、痛みと付き合いながら、治療とリハビリを続けていかねばなるまい。しかし、我はもはや一人ではない。信頼できる先生、そして鍛え上げられたる我が足がある。
希望の光は、確かに我が目の前に灯りておる。


宇宙その神秘なるもの 
07/5/24, 10:08 PM - 一般

はるか昔、人々は宙(そら)に散らばる星々に自らの運命を読んでいた。
星に願いをかけ、未だ見ぬ明日を、不確かな自分の将来を占っていたのであった。

歴史がはじまり学問が生まれた。宇宙の解明は知識人の興味を引き付けるには格好の存在であった。
2世紀頃、天動説が提唱された。
(2世紀頃の天動説とは。この説には紀元前4世紀頃のアリストテレスによる宇宙説なるものなどもあるが、一般的なクラウディオス・プトレマイオスの天動説の事である)
簡単に言うと、空を見上げて東から西に沈む太陽の動きや、星の位置の決まった変化などを見て、すべての天体が地球中心にまわっているという説である。現在の地動説に近い考えもあったが、この頃はまだ天動説が主流であった。

天文学者たちにより未知なる宇宙が少しずつ解明されてきた。

16世紀、ニコラウス・コペルニクスの地動説の提唱。天文学革命の火蓋が切って落とされた。
宗教には天動説の考えで構成されている部分があって、当時は地動説に関して論争や弾圧などがあった。いまだに天動説を信じている者もいるらしいが。
宗教と科学の不和の始まりでもあった。

17世紀、ガリレオ・ガリレイの天体観測による星界の報告。ヨハネス・ケプラーの天体連動、楕円軌道の発見(ケプラーの法則)。アイザック・ニュートンの万有引力の法則。
その他、数々の天才達により地動説が不動の地位を得た。
これら偉大な学者達のおかげで、いまでこそ人々は自分たちが踏みしめる地球の位置などの太陽系のイメージを頭の中に描く事ができるようになったのだ。

20世紀、遂に人類は地球外の天体に到達した。アポロ計画19690720である。(これにはコンスピラシーも多く存在するが私は事実であったと信じている。)

それ以降21世紀、現在まで飛躍的に宇宙の解明が進み、素人の私にはイメージとしてしか捉える事ができないくらいそれの真相が見えてきた。

ハッブルの法則
これにより宇宙は膨張を続けている事がわかった。その法則によって宇宙の年齢が解明された。
元素合成によるビックバン理論である。
137億年、地球の誕生は91億年後、生命の誕生は99億年後の事である。
人類の誕生に至っては136億9500万年後である。
膨張を遂げた後、収縮していくという説もあるが恐ろしすぎてこの説は否定したいものだ・・・

太陽系、銀河系、銀河団、1億光年以上の面積を持つと言われる超銀河団。
太陽系は宇宙の極々一部にすぎないという説。

四次元
アルベルト・アインシュタインの相対性理論
宇宙には果て(端)は無いが、外があるという事。宇宙の果て(端)とは、宇宙を球に例える。球の球面をグルグル回っても果て(端)が無い。球の表面(面積)は有限であるが果ては無いという事だ。宇宙が膨張を続けているという事はその球自体が大きくなっているというイメージだ。
宇宙を三次元の考えで果てを探しても四次元から見れば球の周りを回っているだけしか見えないという事である。
これを推奨する説で、実際どこまでも見れる事のできる望遠鏡で宇宙を見ると自分の後頭部が見えるであろうという説がある。
球面から離れれば外に出るという事だが三次元の私には全く想像ができない。四次元とは時間が関係しているらしいという説もある。
現在、宇宙の外に行く研究が進められている。早く外が見たいものである。
三次元に住む私達が、はたして四次元の世界を理解する事ができるのであろうか。なぜなら二次元の縦と横の世界の者が後ろと前など考えもしないのと同じ事で、三次元の私達からは想像もつかない世界であるからだ。

天文学・・・・宇宙から見ればチリにも満たない人間達が互いに夢を抱き、その真相を究明する素晴らしき最高峰の学問。
私は宇宙の全貌が解明される日が来て欲しいとは勿論思うが、その思いとは裏腹に未知の存在であって欲しいという思いもある。
宇宙の神秘はいつの時代も無くてはならないものである。

果てなく永い宇宙の歴史には人類の様な文明、いやそれ以上の文明を持った者達が他にも数多く存在していた事であろう。
もしかしたら人類と同じ様な文明を持った者達が今も、今日に悩み、明日に希望を抱いているかも知れない。
実は太陽系の小さな惑星に彼らが存在し、近い将来彼らと接触する日が来るかも知れない。
只一つ言える事はどの者達も時間だけは操る事はできなかったという事だ。
いや、できていたのであろうか・・・すでに想像もつかないくらい昔に解明されていて、何がしかの理由で封印されていた(いる?)のかも知れない。
それらの者達が残した軌跡は宇宙のどこかに今も存在し、その文明を受け継ぐ者を待望しているに違いない。

宇宙、何とも神秘なるものであろうか。想像が尽きない人類永遠の夢である。
こうしている今も私は夜空を見上げてそこに浮かぶ星々を眺め、幻想に興じている。


半世紀前の英国に見る 
07/4/24, 09:57 PM - 歴史を見る


Rockers

50年代後半〜60年代前半にイギリスで生まれた若者文化。
アメリカの50'sのスタイルを受け継ぎ、Rock 'n' RollやRockabillyなどの音楽を好んで聴いていた。特にエルビス・プレスリーに強く影響を受けている。
スタイルはライダースというレザージャケットにレザーパンツまたはジーンズ、髪はグリースで固めたグリーセット(リーゼント)。TRIUMPH、BSA、Nortonなどにまたがり、カフェなどに集まってJukeBoxでロックンロールを楽しんでいた。
ロッカーズの聖地として、イギリスのエースカフェがある。
24時間営業であるエースカフェに集まったRockers達が、JukeBoxの曲と同時にスタートし、曲が終わるまでにカフェに戻ってくるという公道レースをカスタムしたバイクで行っていたことから彼らのバイクはカフェレーサーと呼ばれていた。

60年代前半彼らに敵対勢力が現れた。
彼らよりもっとクールで知的であろうとする集団「Mods」である。
彼らのスタイルは、一見トラッド風を着崩した洒落た装いで、Vespaのスクーターをこよなく愛し、音楽はアメリカのレアな黒人音楽、R&Bやソウル・ミュージック、ジャマイカのスカ、ブルービートなどを好んだ。
。また彼らはドラッグを遊びの道具として取り入れた。使用するドラッグはアップ系と決まっていてハート形をした外見だけは可愛い(パープルハーツ)と呼ばれるものなどを服用していた、昼間は真面目な少年少女の仮面をかぶり、夜はクラブで熱狂の一夜を過ごす。

これらの若者文化の背景は
1960年にイギリスで徴兵制度が廃止された。
これにより18歳からの兵役が無くなったことで、
働き始めた若者が増え、当然ながら遊びを求め出す。

この二つの勢力はのちにイギリスのブライトンにて歴史的抗争を繰り広げる。
映画「さらば青春の光」というのがあるのだが、この時代この争いを描いている。
(モッズよりの制作であり見ていて気分が悪かったのを覚えている。)

私はRockersに魅せられた数少ない若者の一人だった。
Rockersの格好などを真似して、ライダースにジーンズ、エンジニアブーツ、ヘアースタイルもグリーセットに決め込み、バイクもTRIUMPHに似せてみたりした。
駅前でステレオにRock 'n' Rollを流しツイストを踊って見せた事もあった。
しかし非常に残念なことではあるが、日本人には全く似合わない。特に私には!
Rockersの文化を学んだ私は、自分が恥ずかしくなり、バイクを降りた。

イギリスにはすばらしい文化がたくさんある。時代にあわない文化は時と共に変貌を遂げる。
今この時点でも後の世代に評価される文化が生まれているのは確かだろう。
しかしながら、Rockersほど私を魅了した若者文化は世界の歴史をさかのぼってもこれを超えるものはない。
叶う事なら1950年代のイギリスへ行ってみたいものだ。


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